9歳までは大阪で、そこから三重県の松阪市に高校3年生までいました。
幼稚園のとき、3歳ぐらいで自分の作品を作ったのを記憶しています。卵の殻でニワトリを描いたり、その頃から不思議とコンセプトを重視するようなことをやっていたのかもしれません。
小学校の時はNゲージという鉄道模型にハマっていました。山や木など自分でジオラマを作るのが楽しいんですよね。建物をちょっと汚してみたり。それを部屋の中を占領するぐらい作っていました。
そうですね。商業高校に通っていたのですが、非常に熱心な美術の先生がいらっしゃるということで、美術を学ぶためだけにその学校に進みました。だから商業のことは、もうからっきし(笑)。学内でもかなり特殊なポジションでしたね。
高校の時はダリやマグリットなど超現実主義の画家が好きで、自分の絵の中にもそういうテイストを入れていました。
社会全体では経済が上向きで、学生のなかには高級な自動車をもっていたり、裕福な友人が高い画材を惜しげも無く使っていたりと、そのような雰囲気は感じていました。
本当はデザインがやりたかったのですが倍率も高かったので、まずは入れるところをと考えて。とはいえ美術学科もかなり難しかったです。高校3年生のときに秋の推薦入試を受けてなんとか合格。入学後は抽象画コースを選択しました。
僕は誕生日が8月1日なので、毎年同日に行われる大学近隣のPL花火大会の日とかぶるんですよね。校舎の屋上から花火を見ていると、まるでみんなで誕生日を祝ってもらってるような、そんな錯覚をした思い出もあります(笑)。
だいたいお昼ぐらいに描き始めて、夜は11時とか終電ギリギリまでやっていました。とはいえ、僕はあまりこもりっぱなしで作業するのが好きじゃなかったので、アルバイトだったりバンド活動だったり、何かとアトリエの外に出るようにはしていました。
たぶん、そのままデザイン学科に入っても今のような幅広い仕事はできなかったと思います。3~4年生の時は、世界の美術界を渡り歩いているような人に一度教えていただきたい、雰囲気だけでも味わいたいと思い、ゼミでは泉茂先生の研究室に入らせていただきました。先生のアトリエが大学の近く(河南町)にあったので、そこにも出入りさせていただき、現代美術のことなど、貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。
前衛芸術を扱っていたこともあり、突き抜けた人が多くて面白かったですね。作品制作でも油彩じゃなくて、そのへんにあるものを使ってみたり、何でもありでした。中にはパフォーマンスで表現する人もいて。そういうのも別にだめということはなく、むしろ「もっとやれ!」みたいな雰囲気でした(笑)。
自分の作品のテーマとして輪廻転生のようなものを表現したいなと思っていたのですが、卒業制作では、その集大成ということで3メートルの高さの絵画を制作しました。「蘇生するもののために」というタイトルをつけたのですが、それは自分にとっても印象深いですね。半年かけて油彩で、他にも砂やアクリル絵具なども使いました。
泉先生は作品を見るときに、「自分で感じ取ったまま思えば良いので説明はいらないし、そこにあるものが美しいと思えばそれで良い」という考え方をされていました。それで僕も作品作りに対してすごく気が楽になりました。
1年生の時に「100課題」というのを与えられました。平面の紙に、あらゆる造形のデッサンを100個考えて描くんです。辛くてリタイヤする人もいましたが、なんとか100個やり上げて、そこでバリエーションを生み出す訓練が出来たと思います。2年生になると版画やデザイン、空間や色彩構成など、いろいろな制作現場を回り、その中で自分のやりたいことを決めます。その1年間があることで、みんな素直に次のステップに入ることが出来るんです。
いきなり何がしたいか問われても分からないし、できないと思います。分かっている人はごく少数。たぶん、みんな入学してから冷静になるための期間というのが2年ぐらいは必要だと思います。周囲を見回しても絵を描くのか、造形をするのか考えると思うので。そういう意味でも良い環境だったと思います。
泉先生にもう少し教わりたいと思って専攻科に進みました。本当は1年で終わるんですけど追加で更新して2年間お世話になりました。その後、デザイン学科の研究室で3年間、副手をしながら作品制作をしていました。
そうですね。専攻科はアトリエの大きさもぜんぜん違うんですよ。巨大な作品も作ることができて。学部とは違う空気感があり、先生方からも「作品を発表しなさい」と言われるようにもなりました。自分で画廊を借りての発表もしていたのですが、専攻科でも作品発表の機会が年に2回ほどあるので、結構なサイクルで作品制作をしていました。なかなかハードな生活でしたね。
そうですね。自分のコンディションがどうのとか言っていられないので。締切りに向かって仕事を仕上げる根性は付きました。
空間デザインの副手をやっている期間に、自分のモチベーションが絵画で思いを表現することから人の生活に役立つものを作るという方向に変わっていったんです。それが1995年に発生した阪神・淡路大震災で決定的に。以後はサインデザイナーとして公共・商業施設のサインデザインを手掛けています。
クライアントさんにアイデアをプレゼンするんですけど、こちらはまだデザインを始めたばかりの若造なので、何を持っていってもことごとくボツになるんです。で、「他にないのか?」と言われて一週間後に持っていくけど、それもだめで。もう本当に自分の存在意義が問われるんですよ(笑)。そういう意味では、自分を押し殺して、ひたすらデザインを生み出すためのマシーンになる。その訓練が辛かったですね。今でこそ良い経験と思えるけど、当時は地獄でした(笑)。
情報を一個の形にまとめて、もっとも見やすいデザインにまとめること。自分たちでラフスケッチを描いていて、いちばん視覚に訴えるものは何かと考えたときにシンプルにするとか色で訴えるとか、要素を減らすと言うか簡素化する。そうやってデザインするんですけど、それがこの仕事の大きな要素ですね。
15年ほど前に大阪芸術大学の学内誘導サイン、映画館のオープンに伴い映画館ピクトを制作させていただいたのですが、やはり母校ということもあり、思い入れはひとしおでした。特に、2008年に大学内に竣工された映画館のピクトサインを映像学科の学科長である大森一樹先生に提案し、採択されたものなのでそれを使い続けていただくというのは自分にとっても大きな誇りです。
東京2020オリンピックメダルは、立体造形を手掛けるプロのデザイナーや学生など、421人の応募者の中からオリンピアンやデザイナー等で構成される審査会を経て選ばれました。”光と輝き“”アスリートのエネルギー“”多様性と調和“などをコンセプトに掲げ、中央の大会エンブレムの周りを立体的な光の渦が取り巻くデザインに仕上がっています。微妙に角度を変えて刻まれた曲線が美しく光を反射し、どの角度からも輝きを感じられます。無数の光がアスリートや周りで支える人たちのエネルギーを象徴し、多様性を示す様々な輝きを表現。さらに世界中の人々が手を繋ぐというメッセージも込めました。自国で開かれる五輪なので記念に応募したのですが、自宅でお酒を飲んでくつろいでいた時に最終の3名に残ったと電話連絡がきました。もう一気に酔いが覚めましたね。
さまざまな人々が気の遠くなるような作業を経て、自分のデザインを形にしてくださり、本当に感無量です。
今、仕事は平面デザインが多いんですけど、メダルのデザインをやらせてもらって技術的にも色々勉強になったので、今後は立体も作っていきたいですね。サインデザインってデザインの世界でも仲間も少ない分野なんですけど、いろいろな方と交流を持って盛り上げていけたらと思います。
一つの考え方に固まらず、自分の創作や将来に対して意識を変えてみるというのは、一度やってみても良いと思います。ある程度経験やキャリアを積むとそれが難しくなりますが、若いうちにいろいろなことをやって殻を割りまくっていると、今は何もなくても20年、30年後に自分のもとに返ってきますよ。