Interview
志望校を決めたのは高校3年の春頃です。映画が好きでそういったことを学びたいと思っていたので、高校の進路相談で映像学科のある大学を何校か教えてもらいました。その中で入試問題などを調べてみると、大阪芸大の試験は設問も具体的で柔らかかったというか、この大学は自分に合いそうだと感じました。私は愛知出身なので関西に親近感もありました。
入学後の第一印象は、「自由そうな学校だな」というものです。髪の毛を緑に染めている人がいたかと思うと、なぜか下駄をはいている人がいるなど(笑)、それまで出会えなかった個性的な人たちがいて驚きました。当たり前ですが、音楽や写真など一芸に長けた学生も多く、入学当初は刺激を受けましたね。私も映画以外の表現に興味が湧き、それにまかせていろいろなことにクビを突っこんでいました。ただ少しずつですが「自分もそろそろ何か作らなきゃ」という気持ちになっていきました。周囲の仲間もそうだし、自然に何か本気でやっていないと居場所がないぞ、みたいな空気になるわけです。なにより時間だけはたっぷりありましたから(笑)。3回生になり映画専攻に進むと、現在も仕事を共にすることの多い、脚本の向井康介と撮影の近藤龍人、前田隼人と僕の4人で長編を作ろうという話になり、卒業制作として撮りはじめたのが『どんてん生活』という作品です。
当時はベテランの映画監督でもある中島貞夫先生がまだ教えていらした頃ですが、先生は基本的に好きなことをやりなさいというスタンスでした。技術面での指導は厳しく講義はひたすら実践的でしたが、個人の持ち味は許してくれたというか、作品のテーマがどうといったことには一切ふれず、「とにかく一本作ってみなさい」という教育方針だった。脚本を見せたときも、その脚本はかなり破天荒なものだったのですが「いいよ、こういうの撮って」と支持してくださる。そのうえで「これ、駅のホームで二人が待っているシーンがあるけど、そこはどうやって撮るんだ?ちゃんとJRに連絡して許可取らないと出来ないよ」といった具体的なポイントを指摘してくださるんです。いわば「先生が教える」というより「大先輩が対等の目線でアドバイスしてくれる」といった感じでした。もちろん僕は直接知りませんが、昔の映画会社のスタジオシステムに近いかしれません。70本もの映画に携わってこられた演出家に、先輩後輩の雰囲気で学べたのは、いま考えると凄いことだし、ありがたいことですね。
学科の先輩の存在もとても大きいです。熊切和嘉さん(映画監督)が同じ寮に入っている先輩だったんですが、あるとき寮の私の部屋を訪ねてきて「映画好きなんやろ。ちょっと手伝ってよ」と。熊切さんの卒業制作の映画で、このときに、映画の撮影現場、映画の仕上げから劇場で上映するための段取りや宣伝、そして、作品が「ぴあフィルムフェスティバル」で準グランプリを取って東京で公開されるまでの一連の流れを見せてもらえるという貴重な経験をさせてもらいました。これで私たちもその後に続こうという思いが沸き、いまもやっていけているのだと思います。
映画は、さまざまな専門職が織りなしてつくる総合芸術ですし、そこに映画制作の大変さと面白さがあります。リーダーシップなどを意識するタイプではなかった私が、こうして仕事をやっていけるのも、映画の現場のなかで集団作業によって何かをつくりあげていくことが合っていたのかもしれません。なにより、現場でものづくりを通じて人と接しながら、自分の役割への責任感を育てることができたのだと思います。まあ、基本的にメンドウくさがりなんですが(笑)、そこをフォローしてくれる仲間たちのおかげで、モチベーションを維持できた面はあります。
たとえばどの学生も大学に入って最初の頃は、映画は監督がつくっているという漠然とした知識しかないものが、講義に出たり、いろいろな現場を経験する中で、それぞれの個性や興味が明確になり、脚本や照明、撮影、美術などに枝分かれし、自分の活きる道に進んでいきます。僕の場合、同級生や先輩たちにもまれながら、演出家という自分のポジションを見つけ、それを確認する4年間でした。
大学では映像制作の基礎はキッチリ教えてくれますが、あとは自分でやるしかないと思います。やる時間はたっぷりあります。いまは撮影用のスタジオもあるそうですし、機材も僕らの頃より充実しているそうでうらやましい気もしますが、混沌とした空気の中から何かを探すことも大学生活の面白さだと思います。